拓也です。聞き取りや資料の提供、ありがとうございます。いま何がどこまで出来ているかをこのページにまとめました。時々更新します。
母方の『乾坤の譜』、父方の『義の譜』、現代の『家族の歩み』。完成したら製本して手渡ししたいので、中身はまだ内緒――ですが、表紙だけお見せします。
『乾坤の譜』 村田の酒蔵から、天文学者と翻訳家の家、そしてお母さんまで――母方三百年の記録(36頁)
『義の譜』 成沢城の侍から、余目を出て海峡を渡った甚佐久、そして義雄まで――父方六百年の記録(25頁)
『家族の歩み』 岩見沢の新婚から、仙台の坂の街、そして小岩まで――二人と三人の息子の記録(48頁)
7月27日から16頁ぶん増えました。完成をお楽しみに。
・7月25日の面談 → 文字起こしと整理完了
・有くんの戸籍謄本(32頁) → 読み解き完了
・お父さんの履歴書 → 裏付け完了、三冊に反映済み
・古い写真 → 177枚・65グループに整理、年代と人物の特定を継続中
・家系図の原本(父方・母方3点) → 三冊に掲載完了
・人物カード → 30枚以上
・『焔の舞』 → 全28章のうち6章まで現代語化
「甚佐久は婿に入ったが、後から男の子が生まれて家を出た」という話。大正15年7月26日に養子縁組、その数週間後に実子の勝雄さんが誕生。伝承のとおりでした。
違っていた点は二つ。勝美・宏・しげ子の3人は山形の横山村生まれで、渡道は昭和8〜11年頃。それと先に札幌に居た兄・誠太郎さんたちを頼っていました。
真山青果『焔の舞』、大正8年・新潮社。全集に入っていないので見つからなかったのです。中身は野蒜築港が一夜の大波で流れた話――十右衛門さんが力を注いだ、あの事業です。初めの6章を現代語に訳しました。
現代語版を読む(PDF・274頁) 原本(国会図書館) 考察「なぜ大沼は出てこないのか」※全文検索しましたが大沼という人物は出てきません。お母さんが「違うみたい」と感じたのは正しかったことになります。
シドニー大学院の首席卒業、日豪学術交流基金の一期生、フルブライトでの渡米、スケートの知事賞。米国の新聞記事(1995年)も実物で確認し、『義の譜』に載せました。
仙台の幼年学校の一期生同士、士官学校も同期、同じ年に任官。多田駿の没後16年に、直輔さんが記念誌へ「多田駿君を偲ぶ」という追悼文を書いていました。
もとの銘柄は「不二正宗」。明治3年、蔵を訪れた初代宮城県知事の提案で「乾坤一」に改名。蔵は正徳2年(1712年)創業、いまの当主で17代目です。
婚姻届が「昭和44年6月・岩見沢市長受附」。金婚式(2019年)からの逆算とも合います。
婚姻届(昭和7年12月)からちょうど50年。兄弟5人でカラオケを歌っている写真も同じ日のものです。
「五千人で余目城を攻めた」という話。実在の成沢道忠が「安保攻め」で五千騎を率いた記録があり、余目城の城主は安保氏でした。年代の食い違いは引き続き調べています。
『死とその神秘』(大正14年)、『近代科学二十三講』(大正13年)、『宇宙の旅』(大正11年)。著作権が切れているので、下のリンクから読めます。
死とその神秘(全244頁)
1/4 2/4 3/4 4/4 NDL近代科学二十三講(全229頁)
1/4 2/4 3/4 4/4 NDL宇宙の旅(全218頁)
1/2 2/2 NDL
明治三十年一月、差出人「大沼十太郎」、宛先「伯爵大隈重信 執事御中」。早稲田大学のデータベースで公開されています。
言い伝えは現物に届きました。ただし宛先は本人ではなく執事宛――伯爵家への年始の挨拶を、決まった形式で出したものです。
『乾坤の譜』に「二つの遺影」という章を立てて並べて載せました。母方の祖父母の顔がはっきり分かる写真は、ほかにありません。
茂雄じいちゃん
徳子ばあちゃん
2012年8月に北広島の家で撮った仏壇の写真を拡大したら、右の額に徳子ばあちゃんの同じ写真が入っていました。つまり徳子ばあちゃんは茂雄じいちゃんより先だったことになります。
2012年8月25日、北広島の家の仏壇。左の位牌に「平成十四年 ○月十九日」と読めますが、暗いので確かではありません。
写真の右下にフィルムの日付「’00 4 22」が焼き込まれていました。会場は水戸芸術館。「文雄と薫さんの舟下り」は「’00 4 9」=式の13日前でした。
2000年4月22日。左から茂喬さん、お母さん、お父さん。
書き起こした表だけでなく、紙そのものの写真も載せました。お父さんが孫の代まで書き足してくれた父方の家系図、池上長茂家の清書版、坂本勝さんが丸菱倉庫の便箋に描いた下書き――この3点です。
反ったプリントをカメラで撮っていたため線が曲がっていたので、平らに置いてスキャンし直し、14枚を差し替えました。甚佐久じいさんの旅行写真は2枚を1枚ずつに分けました。
・野蒜の堤防で釣り竿を持つ文雄(『家族の歩み』巻末「野蒜の海」)
・披露宴で演奏する文雄と薫さん、挨拶する池上雄二さん(僕の結婚式の章に「エルガー『愛の挨拶』」の節を新設)
・遠足の支度をした兄弟ふたり
・神社の石段の三人
・拓也の油絵「チャコ」(茶子はお母さんの70歳に贈った犬。12年後に絵にしてもう一度贈ったことになります)
・二日町のカルコスビル(1975年築なので、1978年に通いはじめたときは新築3年目)
甚佐久じいさん・かちゑばあさんの金婚式は、1982年8月14日。写真の日付焼き込みが「82 8 14」と読めました。お盆の日だったんですね。『義の譜』に日付を入れました。
1981年7月、湖のほとりの茂雄じいちゃんと徳子ばあちゃん(写真に「81 7」)。二人だけで並んだ写真は珍しいので、『乾坤の譜』に入れました。洞爺湖あたりとのこと。このとき茂雄じいちゃん71歳。
1978年8月、北広島の家の居間(裏書「’78 8月 北広島」)。夏の帰省の、家のなかの一日。同じ頁に載せました。
1987年8月7日、東北博覧会に出かける日。左から恵(4歳)、文雄(16歳)、茂光さん。『家族の歩み』に入れました。
※プリントの縁は「FUJICOLOR 88」ですが、これは焼いた印画紙の年で撮影年ではありません。画面の中の焼き込みが「’87 8, 7」でした。
お父さん、『東北学院時報』の第562号(1998年6月15日)が出てきました。これで、ずっと分からなかったことが決まりました。
『東北学院時報』第562号(1998年6月15日発行)――「成沢義雄教授(教)にウェスレー大学名誉博士」。(お父さんから預かった資料)
記事にはこう書いてありました。
「授与式は五月二十二日、ウェスレー大学のスコットD・ミラー学長が倉松〔功〕学長を表敬訪問した際に行われ、ミラー学長から成沢教授に学位記が授与された。」
つまり――学位記に刷られた「五月十六日」は、ドーバーで発行した日でした。それが人の手で運ばれて、六日後の五月二十二日、仙台の東北学院大学でお父さんに渡された。「学長が自分で持ってきたサプライズだった」というお父さんの話は、そのとおりでした。
それから、アメリカの新聞の写真に写っていた「Dr. Isao Kuamatsu」という謎の人。あれは倉松功学長でした。Kuramatsu が Kuamatsu と間違って組まれていたんですね。あの写真の三人目は、お父さんの大学の学長だったわけです。
同じ紙面のとなりの記事に、その日のことがもっと出ていました。ミラー学長はロン・フルーマン教授と一緒に来日して、お父さんの案内で土樋キャンパスを回っている。礼拝に出て、倉松学長を訪ねて、土戸清さん・志子田光雄さん・小竹ヘザーさんを交えて交流の話をして、土樋と泉の両方のキャンパスを見学した――と。
自分がもらう日だと知らないまま、お父さんはお客さんの案内係をしていたことになります。
それと、ウェスレー大学と縁ができた土台も書いてありました。「ウェスレー大学は、宮城県の姉妹県デラウェア州にあり、本学から既に八人の学生が認定留学している実績がある」。お父さんのフルブライトは、県と県の提携という道と、先に渡った八人の学生の上に乗っていたんですね。
お父さんのTBCラジオ「ams ラジオ プレス」のチラシを、平面スキャンで撮り直しました。前は歪んで色も濃く出ていたのが、本当の色(うすい山吹色)になりました。
TBC「ams ラジオ プレス」のチラシ(1982年・開局30周年)。月〜金 夜10時から10分。月=音楽/火=スポーツ/水=ファッション/木=本と映画/金=エトセトラ。(お父さんから預かった実物)
それで思い出した話を、本に書きました。お父さんはこの番組のギャラで、文雄にパソコンを買った。最初がPC-6001、そのあとPC-8801に買い替えた。文雄は『マイコンBASICマガジン』――ベーマガの巻末のプログラムを打ち込むのに夢中になって、いつのまにか僕まで手伝わされていました。一人が読み上げて、一人が打つ。何十時間やったか分かりません。
当時はフロッピーもなくて、カセットテープに音で保存していた時代です。バグが出ると画面に「Syntax error in 2210」とだけ出て、どこが違うのかは教えてくれない。それを一文字ずつ探す。
その文雄が、いま博士(工学)で、論文の題は「機能安全対応基盤ソフトの検証手法の開発」――プログラムの正しさを検証する研究です。そして僕も、第一貨物に入って三年目に本社のシステム部門に行くことになって、あのとき打ち込んでいたBASICを仕事で学ぶことになりました。そこで作った社内システムは、二十年経った今も動いています。
全部、お父さんがラジオをやったことから始まっているんだと思うと、不思議なものです。
文雄が小学一年のころ、団地の崖で遊んでいて、崖の上から椅子の足をぶつけられて頭を怪我した話。ぶつけた子が「犬だと思った」と言ったという、あの話です。それと、空き地のリアカーで遊んで指を挟んだ話。『家族の歩み』の入園式の頁のあとに、「兄の、傷」として入れました。
(僕も同じころ、自分の部屋の机の角に頭をぶつけて縫っています。遠足の日の写真に絆創膏が写っているあれです。兄弟そろってよく怪我をする子どもだった、という書き方にしました。)
お父さんに教えてもらった成沢家の家紋=木瓜。丸の中に木瓜の形、真ん中に花の形。いわゆる「丸に木瓜」です。『義の譜』に「家紋 ―― 木瓜と、二つ引両」という節を新しく作りました。
正直に書くと、期待とは逆の答えでした。ご先祖と言われている最上家の紋は二つ引両で、木瓜とは一致しません。ただし分家が本家と違う紋を使うのは普通ですし、帰農するときに系図や武具ごと焼いてしまった、という話も庄内には残っています。だから「違う」とも「同じ」とも言えない――そこまでを、そのまま本に書きました。
昭和58年度 宮城県民体育大会 スピード・スケート競技会/成年男子1000m 第2位/2′53″5/成沢義雄/昭和59年2月19日/会長 山本壮一郎。
ずっと「二位で知事賞だった」と聞いてきましたが、タイムが分かったのは初めてです。それと、会長の山本壮一郎さんは当時の宮城県知事でした。つまり「知事賞」というのは話を盛っていたのではなく、賞状を出したのが知事その人だったということです。『義の譜』に賞状の写真ごと入れました。
教えてもらった「Invenzione Armonica(インヴェンツィオーネ・アルモニカ)」。イタリア語で「和声の創意」という意味です。そして恵がその代表だということも。チラシには「疾風怒濤の音楽」とあって、演奏の写真は全員が立って弾いている弦楽合奏――古い時代の音楽をやる団体だと分かります。
「アマチュア楽団に入っていた」ではなく「志を持った楽団を率いていた」と書き直しました。『家族の歩み』の「舞台のあとで ―― 恵の楽団」に入れています。
教えてもらったとおり、写っているのは拓也と恵、撮ったのは文雄。護岸に「'95 10 14」の日付が焼き込まれていました。恵は小学6年(12歳)、僕は23歳です。
そして――女川は『焔の舞』に出てくる港でした。野蒜築港の場所を決めるとき、十右衛門たちが競り勝った相手として名前が出てきます。明治の築港争いの両方の岸に、その子孫の兄弟がそれぞれ立っていたことになります。『乾坤の譜』に「そして、女川」という節を作って入れました。
お父さんの言っていたゴールデンウィークの食卓の写真。右下に「5 4'98」と日付が入っていて、1998年5月4日と決まりました(1999年かと思っていたので、一年ずれていました)。「結婚前だったか」というお父さんの記憶も正しかったです――文雄と薫さんの結婚が2000年4月、僕と三代子が2001年ですから、どちらも2〜3年前になります。
後列が左から恵(14歳)・お父さん・お母さん・拓也・文雄、前に座っているのが薫さん(左)と三代子(右)。『家族の歩み』に「二人の嫁が、まだ嫁ではなかった日」という節を作りました。
思い出せる範囲で大丈夫です。返事はLINEで一言でも、電話でも、次に会ったときでも。★印が新しい質問です
裏に「昨日(十月二十四日)フィルムを終らせる為と、記念の思ひも合わせて とりました/◯◯アパート ふたつの家が 新スイートホームです/八軒上下で」と読めます(私の判読なので怪しいです)。茂雄じいちゃんの湖の写真と同じ時期らしいので、1981年前後でしょうか。
舞台の上での楽団の集合写真。
客席のうしろから撮った演奏中の一枚。曲面の天井に丸窓、太いコンクリートの柱――特徴のあるホールです。
1980年、お父さん36歳、文雄9歳、拓也8歳。
1978年度、拓也が小1、文雄が小2。左が拓也、右が文雄。拓也の額に絆創膏。
お母さんのおかげで、被葬者=千勢おばあちゃん、場所=岩見沢の官舎の自宅前、遺影を抱えているのが徳子ばあちゃん、と分かりました。
京都・平安神宮
熊野・鬼ヶ城。服装から1970〜75年頃。
・オーストラリア(シドニー)=1976〜77年、お父さんの留学。家族も1か月。
・イギリス(レディング)=1983年、お父さんの研修。お母さんは同行しましたか?
・アメリカ=お父さんは1995年。お母さんと恵は何年から何年? 恵はどこの学校?(本の2箇所がこの確認待ちです)
・韓国=学会で特別講演。いつ、どこで?
✅1979年8月=茂雄じいちゃんの古希(裏書で確定)。手前左から茂光さん、康子さん、真子さん、こうえいさん、文雄(8歳)、拓也(7歳)、淳二さん。その後ろのピンクの帽子が陽一さん、奥の浴衣が茂雄じいちゃん。茂光さん・康子さんは茂喬さんのお子さん、真子さん・こうえいさんは雄二さんのお子さん、淳二さん・陽一さんは山岸さんのお子さん――母方のいとこが全員そろった一枚ですね。
おかげでもう一つ分かりました。1977年夏の写真では一棟だけだった家に、この写真では右側の祖父母の家がつながっています――増築は1977年夏から1979年8月までの二年のあいだだったことになります。
戸籍で生まれと結婚までは判りました。その後どこで何をしたか、ご存命か、亡くなった方はいつかが空白です。
| 名前 | 判っていること | 教えてほしいこと |
|---|---|---|
| 勝美さん(長男) 昭和5年・山形生 | 東谷清江さんと結婚、札幌 | 仕事は? いつ亡くなった? |
| 宏さん(二男) 昭和7年・山形生 | 戸籍のメモでは平成13年11月9日没? | この日付で合ってる? どこで何を? |
| しげ子さん(長女) 昭和8年・山形生 | 「コロちゃん」。ご存命らしい(92歳くらい) | どこへ嫁いだ? 連絡はつく? |
| 唯志さん(三男) 昭和11年・札幌生 | 昭和42年に長岡麗子さんと結婚、東京・中野。ご存命 | 東京で何の仕事? いまはどちら? |
| 清さん(四男) 昭和14年・札幌生 | 昭和42年に越前谷邦子さんと結婚、札幌 | ご存命? どこで何を? |
| 安雄さん(五男) 昭和16年・札幌生 | ご存命。奥さんも越前谷家の方? | どこで何の仕事? 奥さんの件は? |
| 義雄(六男) 昭和18年・札幌生 | お父さん本人 | —— |
| 正人さん(七男) 昭和21年・札幌生 | 阿部知子さんと結婚、旭川→札幌・手稲。2024年8月10日逝去(78歳) | 旭川・札幌で何の仕事? |
出てきたら、LINEで写真に撮って送ってくれるだけで十分です
お母さんの生まれた鞍山のこと、舞鶴に上陸して室蘭へ渡った引き揚げのこと、茂雄じいちゃんのシベリア抑留と帰還のこと。次に会うときにゆっくり聞かせてください。